考えることは簡単だけど、考え続けることは難しい。

考えることは簡単だけど、考え続けることは難しい。
そう思うことがよくあります。仕事でもプライベートでも、重い課題と向き合わなければいけないとき、さらにどこかのタイミングで決断しなければいけない時などは特にそうです。
<考え続ける>ことは難しい
<考える>と<考え続ける>の間には、当たり前ですが、継続するかどうかのちがいがあります。
継続して考える場合には、それだけの集中力が必要ですし、断続的に考える場合でも、何度もその状態まで自分をもっていけるように自己管理する必要があります。また、どちらの場合でも、それだけの時間や環境を確保するマネジメント能力も求められます。
しかし、本当の難しさは、どこまで考え続けるかを、自分で決めなければいけないところにあるのではと思っています。
止めるための基準

多くの問題や課題は、考え続けても明確な答えがあるかどうかも分かりませんし、終わりというものがはっきりしません。(明確な答えが出るような問題は、多少時間や工数がかかったとしても、答えが存在するというだけで易しい問題と言えるのではないでしょうか)
だから、いつ止めるかは自分で判断する必要があります。
その時に、一番ありがちなのが、「もう十分考えただろう」と、自己満足を感じて止めてしまうことです。あるいは、「もうこれ以上は考えられない」と、自分で限界の線を引いてしまうことです。
自分とは切り離して到達すべき基準を設定する
自己満足や(自分の思う)自分の限界を基準にしてしまうと、価値あるアウトプットのだいぶ手前でストップがかかってしまいます。「もう無理だ」と思ったその向こうに、ようやく何かが見つかるということが往々にしてあります。
“産みの苦しみ”とよく言いますが、新しいものを生み出すのは、基本的に苦しいものです。その苦しさを許容せずに限界を迎えてしまうと、新しいものは生まれません。これはアイデアや企画を考えることに限った話ではなく、新規事業であっても、芸術作品であっても、何にでも言えることです。
どこで打ち止めとするかの基準は、<自分の限界>や<自己満足>という自分都合のものではなく、<到達すべき基準>というものを、自分とは切り離した上で設定できるかどうかが重要になってくるのだと思っています。

ANAの航空会社コード「NH」って何の略だか知ってました??

最近はだいぶ少なくなりましたが、仕事で海外にいたころは最低でも月に1回、多いときは3回4回と出張していた時期があります。月によっては、自宅にいる日数より出張先で滞在している日数の方が多いほどでした。
そういうわけで、飛行機にはよく乗っていたんですが、そのときから不思議に思っていたのがANA(All Nippon Airways 全日本空輸)の航空会社コードです。
航空会社コードは、便名などにも使われている航空会社を表す2桁のコードのことで、たとえば、
・JAL(Japan Airlines 日本航空)であれば「JL」
・アメリカのユナイテッド航空(United Airlines)であれば「UA」
・イギリスのブリティッシュ・エアウェイズ (British Airways)であれば「BA」
です。
 
それで、ANAです。日本への出張の際にはANA便に乗ることが多かったので、便名と一緒によく覚えてるんですが、ANAの航空会社コードは「NH」なんですね。
「NH」だったら、たぶん「Nihon」の略なんだろうなあ、と思ってたんですが、よくよく考えてみるとANAのNは「Nippon」だし。「Nihon」って読んだらライバル会社のJALになっちゃうし。なぜ「NH」なんだろうと思ってました。
実はこの「NH」、「Nihon」という意味ではなく、前身である「日本ヘリコプター輸送 (Nippon Helicopter)」の略なんだそうです。ANAってヘリコプターの会社だったんだ!!
調べてみると、元々はヘリコプターによる宣伝活動を目的にした会社だったそうなんですね。そこから、飛行機事業に参入し、貨物事業、旅客事業へと拡大、さらには国際線への進出とスターアライアンス加盟と、事業を展開してきました。
今となっては、ヘリコプターのイメージはほとんどないですが、そういう原点に返れるような要素がどこかに残っているというのは、とてもいいことだと思います。
最近、名前について考える機会があったので、ふと思い出したお話でした。

私が出走率にこだわる理由。

前のエントリでも書いた通り、昨日は館山マラソンでした。
さて、とにもかくにも、2014年の初戦が終わりました。レースとしてはかなり厳しいものになりましたが、予定通りレースに出て、なおかつ完走できたんだから上出来だと思ってます。
打席に立ち続けることが大事。レースに出続けることが大事。
http://joglog121123.blog.fc2.com/blog-entry-429.html

でも書きましたが、今年は出走率にこだわります。完走するだけで「Good job!」と言いたくなるチャレンジレースが多いので、完走率にはそれほどこだわりません。DNFはOKだけど、DNSにはならないようにがんばります。
ちなみにDNSとDNFですが、

●”DNS”は「Did Not Start」の略で、
  出走せずに棄権すること
●”DNF”は「Did Not Finish」の略で、
  スタートはしたものの途中でリタイアすること
(参考) “DNS要因”と”DNF要因”を考えて、モレなくダブりなく準備する。

ですね。まだ初戦ですが、今のところ出走率100%、完走率も100%です(笑)
本番でしか踏み込めない領域がある
私が出走率にこだわるのはいくつか理由があります。その一つが、本番でしか鍛えられない領域があるということ。
通常の練習では42kmの距離を走ることはありません。フルマラソンの練習であれば、走ってもせいぜい30kmで、通常は20km程度までです。大会でもない限りまとまった時間を取れないこともありますし、何より練習でそれだけ走り切る気力はありません。
距離にしてもそうだし、自分の限界という意味でも、練習では絶対に走るのをやめてしまうであろうところでも、本番なら頑張れるものです。そういう限界に近い領域は、本番でしか踏み込めないので、レースを通じて鍛えるしかないところです。
本番だからこそ、悔しい
今回も42km走ってみたら、最後まで持たなかったわけですが、これは本番だからこそ悔しい。もし、練習だったら、「今日は調子が悪かった」という程度で終わってしまいがちです。
本番だからこそ、言い訳できないし、失敗したときの悔しさが大きいです。そしてそれが、次のレースへの危機感につながります。昨日のレースも、もしこれが3月のIzu Trail Journey(※)だったらと想像してみて、「このままだと、かなりやばい」と認識しました。
※Izu Trail Journeyは、来年チャレンジしたいUTMB/UTMFにエントリーするためのポイントがかかっているので、何としても完走したいのです。
本番だからこそ、楽しい
最後に、大会は素直に楽しいものです。どんなに小さな大会でも、ランナーが集まり、それを応援してくれる人たちが集まるだけで、楽しい気持ちになります。ポジティブなエネルギーに満ち溢れている感じがして、居心地がいいものです。終わったあとは、みんな燃え尽きてますが(笑)もちろん、自分が応援する側に回っても楽しいですね。
この楽しさは、「また走ろう」というモチベーションにつながります。一人で淡々と練習するのもいいですが、練習代わりに大会を使ってみるのもいいと思います。
本番でしか得られないことも多いですし、たくさん本番をこなすことが、一番早く成長できる道なんだろうと思っています。

“本番”の本気感が学びを加速させる:館山マラソン行ってきました!

今日は、前エントリで触れた通り、館山若潮マラソンに行ってきました。
結果は惨敗
今日の館山は、前半の海沿いコースが終始向かい風がきつかったものの、暖かくコース沿いには菜の花が咲いていてとても気持ちよかったです。
21kmまでは、ゲストランナーでペースメーカーも務められていた金哲彦さんのあとにしっかり付き、5:10〜15/kmぐらいのペースで順調に走っていたんですが、徐々に懸念だった右ひざに違和感を感じるようになり、27km地点では脚を動かすたびに刺すような痛みが走るようになり、そこからはストレッチを何度も挟みながら、ほぼ左脚一本で何とかゴールまでたどり着いたという感じです。
結果としては、想定タイムを大幅に超える4時間40分で何とかゴール。このタイム、実は初マラソンと同じくらいです。走力としてはもちろん当時より上がっているんですが、コンディションが悪いと、結果的には同じくらいになってしまうということですね。
走力・実力だけでなく、当日までのコンディショニングやレース中のマネジメントによって大きく結果が変わる、こういう所もマラソンの面白いところです。
一方で収穫もたくさん
レース結果は散々だったものの、収穫もありました。
今日は、右ひざのコンディションが相当悪い中で、いかにリタイアせずにゴールまでたどり着くかということをずっと考えながら、実験しながらレースを進めたわけですが、こういった状況は、これから走るウルトラマラソンや、今年チャレンジ予定のトライアスロンでは必ず遭遇するシチュエーションです。
非日常な距離、非日常な耐久レースにおいては、ゴールするまで体がすべて万全ということはありえません。痛む体とどう付き合って、リタイアせずにレースを終えるかというのが、とても重要になってきます(トップ集団でタイムを競うようなレベルにはありませんので…)。そういう意味では、実践の中で練習し、経験を積んだことは大きな収穫です。
他にも、ロードで初めてバックパックに水を入れて背負いながら走ってみたり、補給用のジェルをソフトフラスクに入れて使ってみるなど、本番で色々と試すことができました。
“本番”の本気感が学びを加速させる
マラソンに限らずですが、”本番”の本気感が何かを習得するために非常に重要です。
みなさんも経験があると思いますが、たとえば仕事上の研修で実践型のワークなんかがあった時、どれだけパフォーマンスがイマイチでも「まあ研修だし、いい勉強になった」「仕事の時は本気でやるから大丈夫」と逃げてしまうことがあるでしょう。
研修も練習も、どこまでいっても本番ではないですし、本番の”本気度”もありません。”本気度”がなければ危機感を感じ、切迫感をもって取り組むこともありません。
そういう意味で、実戦で闘ってみることが、最高の学びの場であるということですね。惨敗ではありましたが、収穫の多いレースとなりました!スタッフの皆様、たくさん応援していただいた館山の地元の皆様、それから共に走ったランナー達に感謝です。

打席に立ち続けることが大事。レースに出続けることが大事。

今日は、これから館山若潮マラソンに行ってきます。
1年のブランクを挟んでランを再開した去年はトレイルランとウルトラマラソンに集中していたので、ロードのフルマラソンはほぼ2年ぶり、楽しみです!
実はちょっと出走を迷ってました

昨年後半から痛めている右ひざが、まだまだ本調子じゃないので、エントリーはしていたものの出るかどうか、今年に入ってからも迷ってました。今も実はちょっと迷ってます。ここでまた痛めると、トレイルシーズンに間に合わないかも、と考えてしまいます。
12月と1月は合計しても、80km程度しか走れてないですし、調整もしてないのでどれだけ走れるかは全然分からないんですが、そういう状況で走ったことがないので、それはそれでいいトレーニングになるかな、と思い直しました。
プロといえど、いつも万全なわけではない
もうすぐソチ五輪が始まりますが、アスリートに求められることと言えば、本番で最高のパフォーマンスを発揮すること。そしてそのための調整、いわゆるピーキングです。
万全の練習を積んで、万全の調整を行って、万全の体調で当日を迎えることができればベストです。実際は不本意な状態で本番を迎えることも多いでしょうが、少なくともそれを目指すのがプロというものでしょう。
ランニングの練習・調整・体調管理を最優先で生活できるわけではない市民ランナーが、プロでも難しいこれらのことができていなくても仕方のないこと。ましてや、それを言い訳として持ち出すのはいかがなものかと思うのです。
もう一つのプロ精神
だとしたら、「打席に立ち続けるのがプロ」というもう一つのプロフェッショナル精神だけでも取り入れようというのが、少しでも高みを目指さんとする市民ランナーとしての心意気です。
プロとしてやっている自分の仕事であれば、調子がよかろうと悪かろうと、仕事はしますよね。調子が出ないから今日は仕事しませんと言えれば、どれだけ楽なことか。まあ、そういう日もなくはない気が…いや、それはプロではないですね。
調子の善し悪しに関係なく、平均してそこそこの打率を残すのがプロというものです。そしてそのための出発点は、まず打席に立つことです。
3月からは、自分としてはかなり挑戦的なスケジュールを組んでいます。最強の市民ランナー川内選手を見習ったわけではありませんが、ランとしては「レースを走ってなんぼ」の年にしようかと。
完走率100%で一年を終えられるかは分かりませんが、出走率100%は達成したいと思います。
そういうわけで、今から館山に向かいます!

第Ⅱ領域活動に取り組むコツ:「○○デー」と決めて、まとめて片付ける。

本日、メンテナンスデーです。
今日はメンテナンスデー。ということで、人と会う予定は入れず、第Ⅱ領域の活動に集中した一日です。念のため、第Ⅱ領域(第Ⅱ象限)とは『7つの習慣』で提唱されている考え方で「緊急ではないが重要なこと」です。
「緊急かつ重要なこと」である第Ⅰ領域はもちろん最優先となりますが、この第Ⅱ領域を意識していないとすぐに第Ⅲ領域「緊急だけど重要ではないこと」に時間を奪われますし、意思が弱いと第Ⅳ領域「緊急でも重要でもないこと」に流されます…

そういうわけで、すぐに他の領域の活動に流されてしまうことが往々にしてあるので、私の場合は、日を決めてしまって、その日は徹底的に第Ⅱ領域活動に取り組むということをやっています。
日を決めて集中的にメンテナンス案件を片付ける

第Ⅱ領域活動の中でも、おろそかになったり、後回しになりがちなのがメンテナンスです。日記とか身体のストレッチのような、毎日のことであれば、決めた時間にやればいいので忘れることもないんですが、一定周期で必要になるようなことはついつい先延ばしにしてしまいます。
たとえば、
・歯医者の定期検診 (半年に一度のペース)
・髪を切る (もう10年以上自分でやってます)
・マラソンのレース用品/携帯食などのチェックと補給
・洋服のクリーニング
・革靴のメンテナンス
・通勤用のロードバイクのタイヤの空気入れ
・・・
こういった、たまにしか必要にならず、やるとなると億劫になりがちなことを、まとめて片付けてしまうわけです。アポが必要なものは、この日と決めたら集中してその日に入れまくり、一日の計画をガチガチに決めてしまうのがコツです。もちろん自分とのアポイントメントも含めてですね。
一日にテーマを持つ
第Ⅱ領域の活動は、意識しないとなかなか時間を割けないものです。だから、メンテナンスデーという日を設けて、メンテナンスに関係する予定を入れまくるわけです。
これはメンテナンスに限ったことではなく、一日にテーマを持つと気が進まないことでも集中的に片付けられたりします。メリハリも付きますしね。先日のエントリで書いた備蓄デーもその一つです。
面倒な案件こそテーマを設けて一日を計画するのはとてもおすすめです!第Ⅱ領域のテーマは地味になりがちですが(笑)

「ノーポチ」はバグったゲーム。

テレビゲームは中学生の時以来やっていませんが、オンラインゲームやスマホでのゲームが主流になりつつある今、当時のことを懐かしく思い出すことがあります。
バグったゲームはおもしろい
私がゲームをやっていた頃は(もう20年以上前なんですね…orz)、まだ「ファミコン」と「スーファミ」だったので、ソフトは光ディスクですらなく、カセットでした。
なつかしい・・・
スーパーマリオブラザーズ
まだ新しいうちはいいんですが、使い込んでくると接続の問題なのかうまくセットできなくて、なかなかゲームが始められる状態までたどりつかないんですよね。カセットを差し込む角度を変えてみたり、息をふーふー吹きかけてホコリを取り除こうと試みたり。今となっては、効果があるのか疑わしい行動ですね。
そうこうしていると、たまに、画面はバグってる状態なんですが、ゲームはできる状態になることがあります。実はこれが結構楽しくて、バグっちゃってるので、キャラとかアイテムとかほとんどちゃんと見えないんですが、いつもプレイしている感覚だけで進めていくというのが実に面白かった記憶があります。
全く同じ、慣れたゲームのはずなのに、なぜかスリルがあるんですよね。
「ノーポチ」はバグったゲーム
こんなことを思い出したのは、前のエントリで書いた「ノーポチ」は、この「バグったままゲームを進める」感覚とまさに同じ、と感じたからです。自分自身は何一つ変わってないんだけど、見える世界が違うというか。挙動自体は同じなんだけど、見えてる世界はまるで違うという感じですね。
思考停止を逆手に取る「ノーポチ」の威力を見た:アイアンマンに挑戦します。
http://joglog121123.blog.fc2.com/blog-entry-426.html

とくに、「ノーポチ」が「ノーポチ」を呼ぶ錯乱状態(※)においては、登場人物がみんなバグっているに等しいので、世界に対する認知がおかしくなってきます。そんな状態でも、とにかく前に進んじゃおうぜ、と思ってしまうわけですね。
※小野さんのおっしゃる「ノーポチ」の原義は、「頭で考える前に、次につながる行動を取ってしまう」という意味だと思いますが、特に効果が発揮されるのは、通常であれば躊躇してしまうような無茶なことに一歩を踏み出す時です。そういった場合、だれかの「ノーポチ」がまた別の人の「ノーポチ」を引き出し、連鎖し、エスカレートするという狂気の状態をしばしば引き起こします。

「ココロの羅針盤」に従う
下手すると取り付け騒ぎとか、オイルショックの時のトイレットペーパー買占めと同じような心理状態に陥る可能性もあります。しかし、これらと大きく違うのは、世界に対する認知こそ変わるものの、自分の行動が何かに踊らされたりすることはない、ということです。
なぜなら、それは外部からの情報によって右往左往するようなことではなく、自分のやりたいと感じたことに対して、行動を起こしているからです。小野さんの言う「ココロの羅針盤」ですね。この針が指す方向に向かっていれば、他者に踊らされるというようなことはありません。
本日も引き続き、小さな「ノーポチ」を連打しています!

思考停止を逆手に取る「ノーポチ」の威力を見た:アイアンマンに挑戦します。

「ノーポチ」しました

「ノーポチ」とは、ノータイムポチリの略で、頭で考え、常識で考えて躊躇してしまう前にすぐ行動するという意味です。

何も考えずにポチッとワンクリックでAmazonでお買い物しちゃった、というのと同じノリで、とにかく心のおもむくままに即次につながる行動を起こすことです。

昨日は、この「ノーポチ」提唱者である小野裕史さんから、直接お話しを聞く機会に恵まれました。

思考停止を逆手に取る

企画を生業としている私は、考えすぎて行き詰まることもたくさんあり、その度に「停止した思考をどう再起動させるか?」ということをよく考えています。

どうしたら、もう一度思考を回転させることができるか、考えを進めることができるか、と試行錯誤しているわけです。思考は、いつもポジティブで想像力に富んでいるとは限らないんですよね。

その典型的な例が、常識に捉われたり、自分の限界を考えてしまうことです。「ノーポチ」は、そんな思考を時間的に、あるいはプロセス的にすっ飛ばしてしまおうという試みです。

知的生産が目的であれば、停止した思考は、色々揺さぶって再起動させることが必要です。でも、心が動いたものをそのまま行動につなげることが目的であれば、むしろ思考停止している状態を逆手にとって、余計な思考に邪魔される暇を与えずに動き出してしまうというのは、とてもいいアプローチです!

そんなわけでポチリ

そういうわけで、ポチりました、トライアスロン。

アイアンマン・ディスタンス(スイム3.8km・バイク180km・ラン42.195km、合計約226km)です。

2013年は、Ultramarathon Manになったので、今年はIronmanを目指そうかと思います。もちろん本業(?)のトレイルランも、UTMB/UTMFにエントリーできるようにがんばります。

トライアスロンは、数年前出張中のフライトで、長崎五島列島でのアイアンマンのドキュメンタリーを見て、「いつか出てみたいなあ」と思ったのが、最初の心の引っ掛かりです。(のちにそれはアイアンマンではなく、バラモンキングだということが分かるのですが。)

これも昨日あの場に居なかったら、そして、いつもお世話になっているRUNクラブのキャプテン井ノ上さんから、日々トライアスリートとしての薫陶(洗脳?)を受けていなかったら、「いつか」のままで終わっていただろうと思います。

「ノーポチ」のすごいところは、一度ポチッと押してしまえば、「生まれたときからアイアンマンやるつもりでした」ぐらいのことは言えるぐらい、やるモードにスイッチが入るところですね。さっそく明日あたり、スイムとバイクの本が6冊ほど届くはずです(笑)

「分からない」ことを立脚点にする②

前のエントリの中で、インドでは、雨は「喜び」の象徴なのだということを紹介しました。
「分からない」ことを立脚点にする①
http://joglog121123.blog.fc2.com/blog-entry-424.html

「ダイバーシティが大事」とか「多様な価値観を尊重すべき」といったことを掲げるのは簡単なんですが、けっこう無意識のうちに無視しちゃってる”可能性がある”ということを認識しておいた方がいいです。
たとえば、プロジェクトの進捗具合を表現するときに、天気予報に模して「晴れマーク」「曇マーク」「雨マーク」なんかが付いている資料を見かけることはないでしょうか。順調である場合には「晴れマーク」が、進捗が芳しくない場合には「雨マーク」がついていますね。
(こういうやつですね↓)
tenki.png
資料をつくっている人は、視覚的により分かりやすくするためにこういう工夫をしているわけですが、日本以外の人たちの目にも触れるような資料であれば、逆の意味にとられてしまって、混乱を招くこともあります。前のエントリであげたインドや、中東などでも太陽マークは必ずしもいい意味とは限りません。
私は、某戦略コンサルの方が何かの資料の中でこの点指摘しており、さすがだなあと思いながら聞いていたことがあります。
お天気マークのようなケースであれば、多少誤解を招く程度で済みますが、ものによっては相手を不快にさせてしまったり、傷つけてしまうこともあるでしょう。また、外国人とのコミュニケーションであれば、何かしら国や文化による違いがあることを認識できるのでまだいいですが、日本人同士でのコミュニケーションや、同じコミュニティ内・会社内でのやり取りでは、そういったアラームも鳴りませんので特に注意が必要です。
とはいえ、こういう「違い」は落とし穴のようなもので、注意したからといって必ず回避できるようなものではありません。気付けないからこそ落とし穴なわけです。
だから、せめて間違って落とし穴に落ちてしまっても、受け身が取れる程度には、その可能性を考慮しておきましょう、ということなんですね。または、落とし穴には落ちる前提で、準備をしっかりしておこうということです。多少痛い思いをしないといけないかもしれませんが、「違い」を知るというのは本来、楽しいことだし、新しいアイデアをくれるものです。落とし穴に落ちることを楽しめるくらいになりたいですね!

「分からない」ことを立脚点にする①

雨の日は好きですか?
突然ですが、雨の日は好きですか?朝起きて雨が降っていたらどう感じますか?
仕事があったり外出の予定がある日であれば、「今日、雨か・・・」「嫌だな」「止まないかな」なんて思っちゃいますよね。私の場合、せめて自分が外に出る時間だけでも止んでくれればいいのに、なんて都合よく考えたりします。
映画を見ていても、雨のシーンは「悲しみ」の象徴として使われることが多いように思います。どうも雨にはネガティブな響きが含まれているようです。
インドでは、雨は「喜び」の象徴
先日、ボリウッド映画の専門家の方とお話する機会がありました。驚いたことに、インドでは雨季は恋の始まりの季節だそうです。日本で言うと長い冬を終えた後の春のような感じでしょうか。
インドの雨季は、だいたい6月から9月頃ですが、その前の4月5月は一年で最も暑い暑季にあたり、デリー周辺でも40度にもなります。その厳しい暑季の終わりを告げ、気温を下げてくれるのが雨季のスコールというわけです。
だから、インドにおいて雨は「悲しみ」の象徴ではなく「喜び」の象徴であり、希望を感じさせてくれるものなんですね。
「分からない」ことを立脚点にする
この話を聞いて確信したのは、人の価値観は多様だから、相手の立場に立って考えることが大事。ということではなく、やっぱり自分以外のことは分からないものだなあということです。
でもこれは悪いことではありません。変に分かったフリをして誤解するよりは、開き直って「分からない」ということを立脚点にする方が、よっぽど建設的ではないかと思うんですよね。ニュートラルな状態から考えを組み立てられるからです。
もちろん、文化の違いとか、環境による価値観の違いとか、知識として一つずつ増やしていくことはできますし、その努力は必要です。でもそれは、無限に存在する他者の視点を獲得していくことに意味があるというよりは、「分かったつもりになってはいけないよ」という自分に対する戒めの役割を期待してということです。
ぜひ、「自分は分かっていない」という前提から始めてみてください。新しいアイデアはこういうところから生まれるものかもしれません。