“ラン大学”で学んだことシリーズ|(3)「火事場」は自分でこしらえる。

“ラン大学”で学んだことシリーズです。

2014年の年間テーマは、

     「身体を通して学び、学んだことを身体知化する」

でございました。走ることを通して、身体を通して、学んで、消化して、吸収して、自分の血肉にしようということで。

そういうわけで、タイトルの”ラン大学”は<ランニングについて学ぶ大学>ではなく、<ランニングを通して学ぶ大学>の意。走ることを通して学んだことを、順不同&不定期で書いていきます。

このシリーズを書き始めた経緯についてはこちらから。

 

***

“ラン大学”で学んだことシリーズ|(2)「出そうと思えば、いつでも全力が出せる」というのは大きな勘違い。 | reboot blog

の続きです。

全力を出すための訓練


自分の全力を引き出すのは、自分で思っている以上に難しい。だから、そのための訓練をしなければいけません。わざわざそのための訓練をしなければいけないんです。

「じゃ、訓練って何やればいいの?」という質問に答えるだけの知見はまだないんですが、今のところ有効だと思われる方法が一つだけあります。それは全力を出さざるを得ない状況に身を投じること

そもそも、全力が出せているかどうかなんて、本人以外に評価のしようがないものだから、人から教わることが難しい分野なのかも。この点については引き続き研究しますが、今のところの結論はこれです。

しかし、この方法は実践するには多少の勇気が必要でしょう。だから、あながち間違いではないと思える程度の証拠を提示します。

証拠①:「火事場のクソ力」


Image(11)

証拠ってこれかよ……

ご覧の通り、キン肉マン(下の方です。黒い顔の人に超強い必殺技かけられて脱出しようとしているところ。念のため)は窮地に陥ったときに、「火事場のクソ力」という、通常時をはるかに超えるパワーを発揮。

ポイントは、いつでもこの力が発揮できるわけではないということ。そして、他の人のエネルギーを注入されたとか、すごい補給食を摂取したとか、そういう外部のエネルギーに頼っているのではなく、自分の中から湧いてくるエネルギーであるということです。

アシュラマンとミート君もそれぞれクソ力を発揮していたので、キン肉マンにしか使えない力というわけではないと思われます。

(話が全く分からないという方は、「火事場のクソ力」へ)

 

証拠物件②:「クリリンのことか」


Image(10)

世代がばれる……

ナメック星での最終決戦において超サイヤ人として覚醒した悟空は、親友であるクリリンを殺したことを匂わすフリーザの挑発に、さらに怒りを爆発。

ポイントは、その後の修行によりこの状態を常に保ち続け、最大限の力を発揮できるようにしたことです。一回限りだと、クリリンが何人いても足りないですから。でも、最初はこういう状況に置かれることが必要。

(話が全く分からないという方は、「クリリンのことか」へ)

 

証拠③:白山・白川郷100kmウルトラマラソンの時の自分

最後に、一般人の証拠として自分自身の経験を。約一年前の9月29日、初めてのウルトラマラソンである第1回白山・白川郷100kmウルトラマラソンを完走しました。

我ながら、なかなか思い切りのいい挑戦ではあったものの、ウルトラマラソンに対する認識が甘く練習が全く足りてませんでした。走る前に調べた情報によると、100km完走のためには、

・月間走行距離は400〜500km走っておくべき

・最低でも直近の3ケ月で毎月月間200kmは走っておくべき

・最低でも一回は50km走をやっておくべき

等々出てくるんですが、実態は、

・月間走行距離は100〜150km

・直前の8月に唯一200kmを一度だけ超える

・練習でやったのは30km走まで

と、走力的にはかなり厳しい仕上がりだったわけです。

しかし、100km&累積標高2530mというチャレンジングな舞台の上に、「いってらっしゃい!」という往路の応援と、「おかえりなさい!」という復路の応援と、「最後までがんばりましょう!」というランナー同士の励ましと、ラン仲間の心の支えが乗っかって、実力以上の未体験ゾーンに突入し、どうにかこうにか完走することができました。どれか一つ欠けても無理だったでしょう。

「火事場」は自分でこしらえる

全く同じ去年の9月29日に、普段練習で走っている多摩川で「同じ力を発揮せよ」と言われても到底不可能でしょう。応援も励ましも心の支えもないし。クリリンとは別に仲良くないし。

普通の生活をしている限り、「火事場のクソ力!!!!!」とか「クリリンのことかーーーっ!!!!!」と叫ばざるを得ない状況に巻き込まれることは稀です。だから、(自分が思っている)実力を超える力がないと達成できそうもないような状況を、自分でこしらえ、自らそこに飛び込まないとといけないということです。

そうしないと、全力を出す機会など、永遠にやってきませんから。すべてはまず、そこからです。

“ラン大学”で学んだこと(3)

「火事場」を自分でこしらえる。

そうしないと、全力を出す機会など永遠にやってこない。


“ラン大学”で学んだことシリーズ(4)につづく。

"ラン大学"で学んだことシリーズ|(2)「出そうと思えば、いつでも全力が出せる」というのは大きな勘違い。

“ラン大学”で学んだことシリーズです。

2014年の年間テーマは、

     「身体を通して学び、学んだことを身体知化する」

でございました。走ることを通して、身体を通して、学んで、消化して、吸収して、自分の血肉にしようということで。

そういうわけで、タイトルの”ラン大学”は<ランニングについて学ぶ大学>ではなく、<ランニングを通して学ぶ大学>の意。走ることを通して学んだことを、順不同&不定期で書いていきます。

このシリーズを書き始めた経緯についてはこちらから。

***

全力なんて、出やしない

ぼくも、つい最近までそう思ってたんですが、「出そうと思えば、いつでも全力が出せる」というのは大きな勘違いです。

何事においても全力なんて簡単に出せるもんじゃないです。そもそも出そうと思って出てくる力なんて、全力でもなんでもない。全力はもっとずっと向こう側にあるものです。

自分の力なのに引き出すのが難しい。自分のことにも関わらず、自分が思っているよりずっと難しい。出せて当たり前というものではないからこそ、鏑木選手や相馬選手のような、トレイルランのエリート選手がわざわざ「全力を尽くす」ということについて言及しているのだと思います。一流のアスリートですら、本番で実力を発揮できないことも多いのに、ましてや全力を出し切るなんて簡単なわけがないんです。

 

大人になると、全力を出さなくなるし出せなくなる

そもそも大人になると、全力を出すことがあまりありません。「ちょっと余裕かましてるぐらいの方がカッコいい」なんて思ってたりはしないでしょうか。

「余裕なんてないよ」「全力でやってるよ」と本人が思っていても、脳が全力だと思い込ませた”安全圏における全力”に過ぎなかったり、時間軸を加味していえば”瞬間風速的な全力”に過ぎなかったりもするわけです。人間は潜在能力の10%程度しか使いこなせていない、なんて言われることもありますが、あながち嘘ではないでしょう……

ここまで色々と試行錯誤しながら走ってきた一つの結論としては、ずばり(潜在)能力を高めるための訓練もいいんですが、出力できる能力を上げる訓練の方が、よっぽど重要ということです。貧脚の正当化をしようという思惑がなくはないですが……

ふだん仕事をしていると、「昨日は徹夜しちゃったよ~」などという痛々しい多忙自慢によく遭遇しますが、徹夜するほど働いていることと、全力で働いているということは別の話です。全力で働いていたら、そもそも徹夜せずに済んだでしょうし。徹夜に至るまでに、その人が髪を振り乱して、本当に全力で仕事をしていたとはどうも思えないんですよね。

そもそも、そんな人たちだって、みんな子どもの頃は、命を削っているかのように全力で遊んでいたはず。遊び疲れて力尽き眠る日々を過ごしていたんですよね。残念ながら、多くの大人は、全力の出し方をどこかで忘れてきてしまっているのではと。

出してない人もいるだろうし、出してるつもりの人もいるだろうし、出したくても出せていない人もいるだろうと思いますが、大人になるにつれて「全力」から遠くなっちゃってるのは間違いないんじゃないかと思います。なんといっても自分自身、全力で仕事してると思ってましたから。でも、走るようになって、それが全力でもなんでもなかったんだと認めざるを得ません……

<本気>と<全力>は違う

<全力>と混同しがちなことに<本気>があります。しかしながら<本気を出す>=<全力を出す>ではありません。

・<本気>はどう力を入れるか、取り組む姿勢の問題。つまり、Inputに関する指標。

・<全力>はどれだけ力を発揮できたか、パフォーマンスの問題。つまり、Outputに関する指標。


この二つは、そもそも焦点が違うのです。そして、<本気>は<全力>のための必要条件ではあっても十分条件ではありません。<本気>だからといって、いつでも<全力>を出し切れるわけではありません。


6月に走ったサロマ湖100kmウルトラマラソンはまさにこのケースで、完走する気満々、ラン仲間とも完走を誓い、ド本気で走っているのに全然走れないままDNFとなったレース。今、思い出しても不甲斐ないっす・・・

 

全力を出すには、そのための訓練をしなければいけない

残念ながら、サロマでどうしていたら全力が出せたのか、いまだにハッキリは分かりません。そこのところの仕組みは、ブラックボックスです。ただ、本気であるだけではダメだということは間違いない。

「全力を出す」ことの比喩として、「アクセル全開」なんて言うことがありますが、この表現は全力を出すことの難しさを捉えていません。車のようにアクセルを踏み込むだけで全力が出せるんなら、こんなに苦労はしないんです。

むしろ、馬に乗って、必死でムチを打ってるぐらいの距離感が正しいんじゃないでしょうか。自分ではいくら本気でムチを打っていても、馬がその通り力を発揮して走ってくれるとは限らないんです。それぐらい自分の心身は制御不能なり。

だから、全力を引き出そうと思ったら、そのための訓練が必要なのです。

“ラン大学”で学んだこと(2)

全力は、出そうと思って出せるものではない。

能力を高めるための訓練よりも、出力できる能力を上げる訓練で、全力に近づくことの方がよっぽど重要。

“ラン大学”で学んだことシリーズ(3)につづく。

おもてなしとIFTTTの話。<後編>

引き続き、「おもてなし」について。

前のエントリは、こちらです。
おもてなしとIFTTTの話。<前編> | reboot blog

IFTTTとは?

「おもてなし」について考えていたら、「IFTTT」が頭をよぎりました。

念のため「IFTTT」とは「if this then that」の頭文字を取ったもので「イフト」と読みます。

IFTTT(イフト)とは「レシピ」と呼ばれる個人作成もしくは公に共有しているプロフィールを使って数あるWebサービス(Facebook、Evernote、Weather、Dropboxなど)同士で連携することができるWebサービスである。開発したのはリンデン・チベッツで2010年にスタートした。
(Source: wikipedia 「IFTTT」)

平たく言うと上の通り、Webサービス同士を連携させるサービスの一種なんですが、どんな風に連携させるのかと言うと、

「if this then that」というシンプルなコンセプトに基づく「レシピ」を作成し共有することができる。レシピの「this」の部分は「Facebookで写真をタグ付けした時」「Foursquareでチェックした時」といった「きっかけ」になり、「that」の部分は「テキストメッセージの送信」「Facebookでステータスメッセージを作成」といった「行動」になる。ユーザーが使用するサービスで有効にする「きっかけ」と「行動」のコンビネーションがレシピである。
(Source: 同上)

ということです。

つまり、「何かがトリガーになって、何かが起こる」という一連のプログラムを、サービスを横断して自分でつくることができるんですね。この「レシピ」という考え方はすごく面白い。これからも、どんどん増えていくと思います。

世の中は、これから本格的なIoT時代に突入していきますが、IoTの世界だと、あらゆるものがネットワークにつながっているので、Webサービスだけが対象であった”this”や”that”が三次元のモノの世界にも拡張されていくのは間違いないでしょう。帰宅して家の鍵を開けたら、自動で電気とエアコンとテレビが付いて、お風呂を焚き始めるといったことが普通になるんでしょうね。

生活者にとってのIFTTTは、日常生活を立体的にカスタマイズするためのプログラムと言えるかもしれません。しかも、スマホをカスタマイズするぐらいの感覚で。うまくプログラミングすれば、あたかもモノたちが自律的に動いているかのような世界観をつくることができるわけで、つまりは、自分用にカスタマイズされた世界の中で生きることができるということでもあります。

IFTTTの限界

それで、「おもてなし」の話からなぜIFTTTのことを思い出したかと言うと、これだけ可能性を感じているIFTTTではありますが、そうは言っても、やっぱり自動化された<サービス>でしかないんだなと思ったからです。

IFTTTの場合、ほしいサービスをレシピとして自分で作成している分、満足度は高いはずだし、トリガーがかかった場合の遂行率はほぼ100%だし、極めて優秀な”バーチャルサービスパーソン”ではあります。でも、いかんせん、事前に作成したレシピ通りにしか動かないんですよね。

<サービス>と<おもてなし>の文脈でいえば、どれだけ自分好みで完璧な<サービス>を提供してくれたとしても、プログラム時の想定を超えることは絶対にありえません。それは、マニュアルに書いて人を動かすのか、IFTTTで書いてモノを動かすのかという手段の違いでしかなく、質の違いではないからです。

「おもてなし」だけが人間に残された領域

逆に言えば、マニュアルに明記できるようなものは、すべてIFTTT(やIFTTT的なもの)に置き換えていくことが可能ってことで。人間がマニュアルに従って動作するより、ロボットが動作した方がはるかに正確です。こういう領域からは、良くも悪くも人間は追い出されていくんだろうと思います。

となると、人間に残されているのは、やはり<おもてなし>の領域ではないかと。マニュアルには書きかねるような複雑さや繊細さを扱うところにのみ、人間が介在することになるだろうと。そしてそこは、日本人の偏差値が超高いと言われている領域ですよね。日本人、大チャンスです。

未来予測的な言い方をするのであれば、

・今、マニュアルに従って働いている人は、ネットワークにつながったモノに置き換えられていくでしょう。
・今、マニュアルを書いている人は、いいIFTTTのプログラマになるでしょう。
・今、マニュアル化するのが不可能な領域で働いている人は、人間らしい仕事の先駆者として将来にわたって安泰でしょう。

「おもてなし」の話から広がったちょっとした妄想でした。当たらずとも遠からずだと思ってますが!?

「おもてなし」についての考察は、近日発売のこちらの本に詳しいようです。私も読んでみようと思っています。

おもてなしとIFTTTの話。<前編>

先日、「『おもてなし』を科学する」というテーマのお話しを聞く機会をいただきました(オープンな場ではなかったので詳細は伏せさせていただきます)。

接客業や営業職では、おそらくよく議論されているテーマだとは思いますが、これまで真っ正面から考えたことがなかったので面白かったです。自分の仕事の中でも、UXの開発なんかにおいては、とても大切な視点ですしね。

ところで「おもてなし」って何?

「おもてなし」といえば、流行語大賞にも選ばれた、昨年9月IOC総会での五輪東京誘致の例のプレゼンテーションを思い出したりするわけです。そこでは、日本のホスピタリティを象徴する言葉として謳われていたわけですが、「じゃあ一体、おもてなしって何なのさ?」と問われると、日本人であっても答えに窮するところではないかと…東京五輪が来るまでに、もう少しちゃんと考えておいた方がいいかもしれませんね。

そんな<おもてなし>ですが、いくつかの定義があるようです。<サービス>と比較する形で語られることが多いようで、

たとえば、提供する側/提供される側の関係性に着目し、

・両者に主従関係が発生し、チャージやチップが発生する<サービス>
・家族と接するように、見返りを求めない関係が<おもてなし>

または、お客様の期待値を基準にして、

・期待の範囲内の提供は<サービス>
・期待をいい意味で裏切るような気遣いが<おもてなし>

など、それぞれの定義に、一理あると思わせるものがあります。<おもてなし>と<ホスピタリティ>は区別したりしなかったり、そちらの定義も色々あるようですね。

「お・もて・なし」=「お”以て””為し”」

色々あるらしい「おもてなし」の定義。どれもそれっぽいんですが、前述の場ではその語源から紐解いておりました。

「おもてなし」とは、「お・もて・なし」。漢字で書くと、「お”以て””為し”」。つまり、「○○を以て、□□を為す。」の省略形だそうです。心構えというか、人を遇するときの精神みたいなものが語源だと勝手に想像していたので、これはとても意外でした。○と□には何でも入り得る、ただの式みたいなものですからね。

面白いのは、お”以て””為し”が、接遇に関する一種のテンプレートではあっても、マニュアルではないというところ。「どのような接遇を行うべし」という指針ではないところです。

つまり、「どんな時でもこうしておけばOK」というような接遇が一つの解として決まるものではないということを大前提にしていて、だからこそ提供される側との関係性や状況によって、提供する側(またはされる側)のクリエイティビティが入り込む余地が、あらかじめ確保されているというんでしょうか。

日本の「おもてなし」と言えば、旅館のおかみさんや寿司屋の板前さんが、例としてより取り挙げられます。呼んでないのに、絶妙なタイミングでお茶を持ってきてくれたり、その日の体調に合わせて握ってくれたり。

そういった空気の読み方は、高コンテクスト文化の日本だからこそ成立しているのかもしれませんが、それにしても「何を以て何を為すか」、その都度その都度判断しているこういう方々は、極めて高度な知識労働者であると言えると思います。

もしかすると、お客様と台本のないサプライズゲームでも楽しんでいるような感覚なんじゃないでしょうか…

そんな話をしていたら「IFTTT」のことが頭をよぎったんですが、長くなったので、次のエントリに続きます。

“ラン大学”で学んだことシリーズ|(1)自分でそうと決めれば、それは学校になる。

10月に入り、2014年も残すところ3ヶ月となりました。

「今年もあっという間だった」と言いたいところですが、振り返ってみると全くそんなことはなく、gkbr((((;゜Д゜))) とwktk+(0゚・∀・)+に満ちた、長い長い一年でした・・・まだ終わってないですが。

そんな今年の、最も大きな変化の一つは、インプットの方法を変えたこと。

例年だと、その時々の興味・関心に応じて、仕事の傍ら学校に通ったり、セミナーに行ったり、専門家の話を聞きに行ったり、その分野の本を集中的に読んだりといったことをするわけですが、今年はそういったことをほとんどやってません。読書量も大幅減で、今年に入ってからは10冊も読んでないんじゃないかと・・・(知識労働者の端くれとして、これはさすがに反省しています)

それでは、何がインプットとして置き換わったのかというと、ずばり「走ること」。

2014年の年間テーマは、

「身体を通して学び、学んだことを身体知化する」

でございました。小難しく書いてますが、要は走ることを通して、身体を通して、何かを学んで、消化して、吸収して、自分の血肉にしようってことです。

自分としては、ビジネススクールに通うのと同じ感覚で走ってきました。自分で仮想の”ラン大学”なるものを拵えてしまって、走ることを教材にこの一年を過ごしてきたという感じ。だから、”ラン大学”と言っても<ランニングについて学ぶ大学>ではなく、<ランニングを通して学ぶ大学>という意味になります。

2014年度”ラン大学”カリキュラム

そんな仮想”ラン大学”ですが、勝手にやってるだけなので、カリキュラムも当然、自分で用意です。とにかく実践あるのみ、年間通じて絶え間なくチャレンジが続くようにということで…

●毎月、ウルトラレースを走る!
・「ウルトラレース」の定義は、100km以上の距離 and/or 制限時間14時間以上。
・ロード/トレイル/トライアスロンは問わず。
・トライアスロンはアイアンマン・ディスタンスのみOK。
・サブ指標として、レースで年間1000km。

と決めたんですが、もはや勢いだけ…まあ、学校に通うぐらいのつもりとなれば、これぐらいにはなりますよね!?

トライアスロンはバイクがかなり距離を稼いでくれるので、本当はちょっとずるいんですが、スイムはつらい割に距離が稼げないし、今年始めるド素人なのでOKでしょう!

ランの中期目標がUTMF/UTMBの完走なので、160kmを走るための準備として2014年は100kmという距離に慣れることを最優先。以前のフルマラソンぐらいの感覚で、100kmウルトラマラソンを走れる状態に持っていくのが、今年のひとまずのゴールでした。

2014年度”ラン大学”カリキュラム履修状況

そういう方針で年間計画を立てたところ、結果的には「8ヵ月連続ウルトラチャレンジ」に。これまでのところ、

・4月: チャレンジ富士五湖112km ⇒完走
・5月: 野辺山100kmウルトラマラソン ⇒完走
・6月: サロマ湖100kmウルトラマラソン ⇒DNF
・7月: 大雪山ウルトラトレイル110km ⇒完走
・8月: IRONMAN JAPAN 北海道(トライアスロン226km) ⇒完走
・9月: 信越五岳トレイルランニングレース110km ⇒完走
・10月: 日本山岳耐久レース(ハセツネ) ⇒これから
・11月: HK168 ⇒これから

という状況。本当は、3月にIzu Trail Journey 72kmを走り、12月にも海外のウルトラレースを走って10ヶ月企画にしようと思っていたんですが、3月は大雪の影響で中止、12月はエントリー満員御礼ということで8ヶ月企画となりました。

やってみないと何が起こるか分からない、という見切り発車ではあったものの、ここまでは何とか食らいついてます。4月の富士五湖は制限時間2分45秒前ゴールだったし、5月の野辺山は開始4kmでロキソニン投入、絶不調の6月サロマ湖はDNFなので、下手したら全敗も十分あり得ましたね…

“ラン大学”で学んだことシリーズ

あと2本、重いチャレンジを残しているものの、すでに完走率が6割を超えたので「可」での修了ぐらいは見えてきました。というわけで、そろそろ卒論代わりにこれまで走りながら得てきたことを整理していこうというのが、この「”ラン大学”で学んだこと」シリーズです。

この半年ちょっと、毎月毎月レースに向けて予習して、レースを走って、復習して、ということを繰り返してきたわけですが、まず思うのは、自分でその気になってカリキュラムを組んじゃえば、本当に何だって学校になっちゃうもんですねってことです。

今年のカリキュラムは、おそらくビジネススクールに負けず劣らず厳しいものでしたが、

・「走る(漕ぐ・泳ぐ)」という身体動作を通して
・練習と準備とレースに向けたスケジュール管理を通して
・レース中の試練・死闘・葛藤・試行錯誤を通して

色んな側面から、人生に役立ちそうなこと、仕事に役立ちそうなこと、たくさんのことを学びました。それこそ、目的も中途半端なまま学校に通ったり、セミナーに行ったりして、なんか学んだ気になってるより、よっぽど勉強になったんじゃないかと。「人生で大事なことは、すべて走ることから教わった」とか、思わず口走ってしまいそう。

ということで、

ラン大学を通して学んだこと(1)
自分でそうと決めれば、何だってそれは学校になる。

書いてるだけで何だか恥ずかしくなってきますが、この一年の投資回収はしっかりやらねばということで(笑) 順不同・不定期ではありますが、このシリーズ、ぼちぼち書いていこうと思います。

日常生活も”check-in&check-out”で、<始まり>と<終わり>をはっきりさせよう。

先週一週間は、公私ともに諸々の案件が立て込んでおり、目が回るようなスケジュールでした。

こんな時は、スケジュールを消化するだけで精一杯。こなしてるだけで「やった感」はあっても、アウトプットが全く出ていないということも多いものです。

そんな時にちょっとだけ意識していること

スケジュールを消化してるだけで「お仕事してる」と勘違いしてしまいそうになる時、少しだけ意識しているのが、

「一つ一つの仕事に、”check-in”して”check-out”する」ということです。

check-inといえば、ホテルに泊まる時や飛行機に乗る時にやるあれです。ホテルでは、check-inしたところからホテル側のサービス提供が始まり、check-outによって終わります。

それと同じで、要は<始まり>と<終わり>をはっきりさせようってことなんですね。

“check-in”と”check-out”の間で変わったもの

<始まり>と<終わり>を意識すると何がいいの?ってことなんですが、たとえば会議。

会議室に入ったときが”check-in”だとしたら、会議室を出るときが”check-out”です。会議室に入る前と出た後、この「Before/After」で一体何が変わったのかを考えることになります。入った時にはなくて、出る時に手に持ってるものは何なのか?それがその会議のアウトプットってことですね。

ホテルであれば、支払いの瞬間がいわゆる「真実の瞬間」。inとoutの間に受けたサービスと、今から支払おうとしている対価を比較して、評価を決定するわけです。

会議においても本来は同じはずで、会議に参加した人が投下した時間やら労力やらに対して、得られたものは釣り合っているのか、“check-out”することによってBefore/Afterを明確に区切り、その間に生まれた成果に対する評価を下す機会を持つということです。

何にでも使える”check-in&check-out”

もちろん、会議に限らずデスクワークだろうと、立ち話だろうと、会食だろうと同じことですね。

それぞれのBefore/Afterで、予定通り資料作成が進んだのか、悩んでいたことに解決の糸口を発見できたのか、お互いに欲しかった情報交換ができたのか、などきちんと評価ができるでしょう。

もっと言うと、仕事を終えて自宅に帰った時も”check-in”すると思った方がいいのかもしれません。自宅の方が、ついつい無駄な時間を過ごしがちですから…

朝また家を出る時をcheck-outと考えたら、それまでに成し遂げたいことは何なのか?空腹を満たしたいのか?十分な睡眠を取って疲れた体を癒したいのか?家族とコミュニケーションで癒されたいのか?

自宅の場合は、家賃(またはローン、または減価償却費)を払っていることですし、実際も毎日通うホテルみたいなものと言えるかもしれません。出張・旅行の際には受けたいサービスによってホテルを選ぶように、家を”check-out”するまでに得たい便益を明確にすることが、自宅でいい時間を過ごすためには必要かもしれません。ほとんどセルフサービスでしょうけどね…

「新しい競技をつくるのが最強」説と、普及曲線と、国内最大規模のアナログゲームイベントへ行ってみようという話。

先日、といっても結構前の話ですが、「新しい競技でもつくるのが最強だよね」みたいな話になりました。

話の流れとしては、たしか、こんなこんな感じで。

ウルトラマラソンを毎月走るようになり、トレイルランも100kmを超えるレースを走るようになり、トライアスロンを始めてアイアンマンになり、周囲の人(つまり、その趣味の世界を共有してはいないけど、日常的にコミュニケーションのある会社の同僚など)との溝が、いい感じで深くなってきた昨今、これからどういう方向に向かうのか?

そんな軽い(?)話のノリではあったんですが、もちろんまだまだその世界でのエクストリームは存在するわけで、そこにとことん突っ込むのも面白そうではあるんですが、先人がいる限り、後追いであることには変わらない、と。

それなら、自分で新しい競技をつくり、その競技で勝つに十分な投資(習熟のための時間・お金など)を先行して行った上で、その競技を広めれば、絶対に自分はNo.1になれるし、しばらくして自分より優秀なフォロワーが出現してNo.1の座から転げ落ちたとしても、自分はその競技の始祖として、永遠に崇められるという仕組みです。

ビジネス的に言っちゃうと、「新規事業開拓」の一言で済んでしまうことかもしれませんが、こういう言い方をした方がずっとワクワクします。

この辺の話はとても興味深く、最近よく考えているテーマの一つなんですが、そんなことを頭の片隅に置いていたら、なかなか面白い記事を発見。

Image(7) 趣味の普及曲線 (1/2)

マーケティングでよく使われる「普及曲線」が、趣味においても当てはまるんじゃないかという話ですね。

「普及曲線」は、基本的には特定の商品(群)やサービス(群)に対して使われることが多いですが、物事が浸透していく際の顧客層の変化というのは、何事においてもそう変わらないと思うので、使い道の広い理論です。

それぞれのフェーズごとに、趣味を紹介したときの反応をまとめるとこんな感じだろうか。

  • A:イノベーター段階

  「まずこういう趣味があってね」という説明から入らなければいけない。

  大多数は存在すら知らない。

  • B: アーリーアダプター段階

  「あ~、あれね。へぇ~、やってる人いるんだ~」

  知ってはいるが、自分でやるのはごく少数。

  • C:アーリーマジョリティ段階

  「あ、オレもやってたよ/やってるよ!」

  たまに同じ趣味の人に会えて盛り上がる。

  • D:レイトマジョリティ段階

  「オレもやってたわ/やってるわ」

  もはやその趣味が珍しくもない

  • E:レガード段階

  「え、今どきそんなのやってるの?」と言われる

この分類、感覚的にとても納得感があります。ウルトラマラソンやトレイルランは、<B:アーリーアダプター>から<C:アーリーマジョリティ>へ移行し始めたぐらいでしょうか。

この記事の著者の方は、ボードゲーム(アナログゲーム)を趣味にしているそうで、今は<A:イノベーター>段階にあるとのこと。

この段階だと、

・名称を統一する

・大賞をつくる(ことでその分野の模範・典型を掲げる)

ことが有効なのでは、といった分析もされてます。

新競技を発案したあとどのように普及させるのかといった点に関しては、ニッチな趣味がメジャー化していく過程を研究するのは、とても面白そうと思った次第です。

***

【ものづくりベースキャンプ vol.9 “ハレ会” 緩募】

そういうわけで、まだ<イノベーター>段階にあるというボードゲーム市場がどんなものなのか、ちょっとのぞいてみようかと。

上の記事でも紹介されている「国内最大規模のアナログゲームイベント『Game Market 2014 秋』」に行ってみようと思いますので、一緒に行ってみたい!という方を緩募します~ 

名称:ゲームマーケット2014秋
開催日:2014年11月16日(日曜日)
会場:東京ビッグサイト (東京国際展示場) 西4ホール
(〒135-0063 東京都江東区有明3-11-1)
開催時間:10時~17時(予定)
入場料:入場チケット付きカタログ 1500円(税込)【事前販売のみ】
    入場チケット 1000円(税込)【当日販売のみ】(予定)
    カタログ 500円(税込)【当日販売のみ】(予定)
※小学生は保護者同伴、中学生および高校生は学生証の提示で入場無料
※入場には「入場チケット」が必要です

ご興味のある方はご連絡ください。アウェイ感たっぷりすぎて、一人で行くには気が引けます(笑)